20代最後の旅、至誠を貫け


 
 
こんばんは!光一です!
 
気付けば4月。新年度になりましたね、新しい環境に変わった人もいると思います。これからどんどん気候はジメジメとしていきますが、それぞれの環境でがんばっていきましょー*
 
 
さて、今回は仕事と少し関係ない記事を書いてみます。というのも、先週、人生15回目の山口にこっそり行ってきたのです(行き過ぎw)(半分以上は講演の仕事です)
 
恐らく20代最後の旅行になりました(現在29歳、あと1ヶ月半で誕生日)。明治維新オタクの友達が行こうと誘ってきて決まった今回の下関&萩の弾丸旅。新時代を切り拓いた維新志士たちの関連地を今まで以上に巡りました。色々と文字として残しておきたいと思います。(以下、各人を敬称略で記していますが、ご容赦ください)
 
 
 
1、スノボデビュー
 
はい、早速話は逸れます笑。下関&萩に行く前に、岐阜に行きました。3月中旬についにスノボデビューをしたのですが、流れでもう1回滑ることになり、スノボ行ってからの旅行となったのです。1回目も2時間強、2回目も3時間強のみの滑走でしたが、あれよあれよとS字ターンも修得!ぎこちないストロークではあるけど、数回滑っただけでこのすべりは、相当凄いことのようで、周りが至極驚いてくれていて嬉しいです。1回目は戸高弟、2回目は戸高兄と行ったのですが、前日の戸高父アドバイスも凄く参考になったり、戸高家の皆さまには感謝で一杯です。こちら僕の滑走動画になります!ご査収くださいー*
 

 
 
2、京都
 
さあ、始まりました。明治維新を巡る旅。岐阜から京都経由で山口に向かいました。京都もそれなりに、いや、かなり、明治維新に関係している街ですよね。僕は今、何の縁あってか京都に一時的に引越し、大政奉還が行われた(徳川家が江戸やめますを実質宣言した)二条城の真横に住んでいます。その点でも、今回の旅はとても神妙な気持ちでした。今の時代の礎を切り拓いた明治維新に想い入れがある僕は、一回萩を回ったことがありますが、そのときはあまり明治維新に興味がない人と一緒でした。今回はオタクの子と回れるということで、かなりマニアックに回り回りました。その最初として、池田屋事件があった池田屋の跡地から巡りつつ、京都を発ったのです。
 

 
 
3、山口グルメ
 
あれ、おかしいな、また話が逸れます笑。続きまして、今回下関と萩で食べたグルメをご紹介。
 
・瓦そば 藤屋 (山口県下関市唐戸町6-1)
山口が生んだ名物「瓦そば」。熱した瓦の上に茶そばと具材を載せて、温かいめんつゆで食べる料理です。西南戦争の際に熊本城を囲む薩摩軍の兵士たちが、野戦の合間に瓦を使って野草、肉などを焼いて食べたという話に参考にして、下関の旅館を営む人が発明した一品。なんだか最近流行ったドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」の中で出てきたようで、それによる認知度が高いみたいですね。僕は元々ずっと瓦そば好きとして通っているので(通っているのか?)、この料理は外せませんでした。
 

 
・ふくの河久 (山口県下関市唐戸5-1)
下関といえば、「ふぐ」!!大阪より西では、福にかけて「ふく」と呼ぶみたいです。ふぐは不遇なんて言葉が連想されますしね。こちらのお店では、ふぐ刺身ぶっかけ丼880円を食べました。そこで食べたサイドメニューのふぐの唐揚げが特に大当たりのおいしさだったのはここだけの話。ふぐカレーとかふぐバーガーとかもありました。
 

 
・世良精肉店 (山口県下関市長府中浜町3-13)
これも下関。明治維新巡りをしている最中、ふと目についた精肉店。僕の直感機能にクリーンヒットします。思わず友達にきつい口調で「止めて!ねえ、止めてよ!」と言ってしまいました笑。店を見た瞬間に、山口を代表するレベルの美味しいコロッケやカツが食べれると直感したんですよね。(実際大当たりもいいところの味で、友達には「これから光一さんの直感を信じることにします」と言われました笑)
 

 
・がんこ庵 (山口県萩市大字江向4区587)
萩では、萩ちくわや長州サイダー、ぎょろっけ、松陰団子など、軽いものをたくさん食べつつ、入りたい店に入るスタイル。そんな中、昼食時に出会ったのは、メニュー看板も出ていない蕎麦屋。中に入ってみても、お客さんは全くおらず。しかし!壁を見てみると、井上真央さんや伊勢谷友介さんなどのサインがあるではないですか!大河ドラマ「花燃ゆ」のキャスト陣ですね。店員さん曰く井上真央さんは3回もここに通ったそうです。うん、確かにすごくおいしい蕎麦でした。
 

 
・元祖ほかほか弁当 吉田町店 (山口県萩市吉田町81)
萩市内の別の場所で出会ったお弁当屋さん。「萩で2番目においしいお弁当」というキャッチコピーと、とても窮屈そうな佇まい。ここ、入ってみよう!で満場一致する僕たち。そして、からあげ弁当などを注文しつつ、お店の人になぜ2番目か聞いてみる。すると、「お母さんが作るお弁当が1番だから」という返答が返ってくる。おおおおお!という威勢の良いリアクションで満場一致する僕たち。良心的な値段だし、容器に窮屈そうに具材がたっぷり入っていて、おいしいお弁当でした。
 

 
 
4、ruco
 
もう1つだけ。萩には「ruco」というゲストハウスがあります。前回萩に行った際に、知り合いの紹介でrucoに泊まって、オーナーさんとも仲良くなったのですが、萩出身で、Uターンして来て、様々な地域活動に取り組む熱い方でして。今回は泊まらなかったのですが、1時間だけお時間もらって、rucoのロビーでお茶して団らんしました。
ゲストハウスである以上にほんとオシャレな空間で、人も暖かいので、ぜひ萩に行くことがある方はrucoに泊まってみてください\(^o^)/
 
http://guesthouse-ruco.com/
 

 
 
 
5、明治維新を巡る下関
 
(ここから本題?です!巡った明治維新関連地について記録していきたいと思います!)
 
 
・白石正一郎旧宅跡 (下関市竹崎町3丁目8-13)
下関は、高杉晋作が奇兵隊という士族じゃなくても闘える画期的な義勇軍チックな組織を作り、主に拠点とした街。その中でも、まず、その奇兵隊を結成した場所である、白石正一郎旧宅跡に行きました。 (※白石正一郎は山口を代表する商人で、高杉晋作の大型スポンサーだった人です)
 
 
・高杉晋作終焉の地 (下関市新地町3番 妙蓮寺前)
高杉晋作が息絶えた場所に行きました。高杉晋作は肺結核によって27歳の若さで命を落としたのですが、桜山の「高杉晋作療養地」と、「白石正一郎旧宅跡」の間にこの場所があって、帰り道か、向かう途中に倒れたのかなとか想像しながら、この場所を歩きました。
 

 
・桜山招魂場 (下関市上新地町2-6-22)
写真の地図を参照して欲しいのですが、階段を登ると桜山神社の境内があって、その裏手に桜山招魂場なるものがありまして。これがですね、幕末に散った長州志士総勢391名の霊標が突き並ぶ土地なんです。高杉晋作の発案によって作られた桜山招魂場は、同じ志を持った仲間たちを、身分に関係なく、一つの場所で慰霊しています。凄まじい光景で鳥肌がしばらく止まりませんでした。
実はこれ、今では各地にある招魂社(靖国神社など)の根源とされています。今回お墓や霊標の写真は載せないことにしているので、もし実物が見たい人は「桜山招魂場」でgoogle画像検索してみてください沢山出てきます。
  

 
功山寺 (下関市長府川端1-2-3)
明治維新オタクの人なら、このお寺の名前を見て、すぐに何の場所か分かったと思います。はい、「功山寺挙兵(回天義挙)」の舞台です。幕府による長州討伐にビビっていた保守的な長州藩との決闘。後の初代内閣総理大臣になる伊藤博文の援軍などもあって、高杉晋作率いる奇兵隊は、圧倒的不利な中で大勝利。椋梨藤太を排斥して長州藩の実権を握ります。写真は「高杉晋作回天義挙像」です。かなりな数ある高杉晋作像の内、唯一馬に乗っているやつです。
ちなみに功山寺挙兵前に、高杉晋作が白石正一郎に遺書のようなものを渡しているのですが、その碑が次の東行庵にもありました。
 

 
東行庵 (下関市吉田町1184)
高杉晋作の死後、彼の盟友である山縣有朋、伊藤博文、井上馨たちによって作られた高杉晋作のお墓がある場所です。愛人おうのが出家してこの場所を守って暮らしたらしい。そして、山縣有朋や高杉晋作などの銅像があったり、白石正一郎や色んな人の歌碑があったり、語弊がありますが、テーマパークみたいな感じでした。このURL先に地図がありますが( http://www.tougyouan.jp/institution/index.php )、本当に様々な花が植えられているようで、どんな季節に行っても、必ず彩りがあるんですね。
そして、驚いたのは物凄い数のお墓でした。若い維新志士なんかは戦で敗れて適当なところに墓を作られるなど当時ザラにあったようで。それを嘆いた昭和の東行庵関係者が、各地の長州志士や奇兵隊の墓を見つけては分骨し、ここで供養していったようです。それでいて、色々な人の思いやりが通う場所なので、「なんだか暖かい空気が流れているなあ」と感じる空間でした。
 

 
 
6、明治維新を巡る萩
 
・松陰記念館 (萩市大字椿字鹿背ヶ坂1258)
さて、萩で最初に伺ったのは、道の駅「萩往還」にある松陰記念館。凄いしっかりとした模型オブジェクトが沢山あって、なんでこれが萩の中心街にないのだと思ってしまうほど贅沢な施設でした。外には、高杉晋作、吉田松陰、久坂玄瑞、山県有朋、木戸孝允、伊藤博文、天野清三郎、野村和作、品田弥次郎、山田顕義の銅像が10体横並びしている凄まじい景色。他の場所は大体単体なので、ここはすごい。
 
 
・山形有朋像&久坂玄瑞進撃像 (萩市江向 中央公園)(萩城城下町側)
萩の中央公園辺り。オシャレな図書館もあるこの場所には、山縣有朋と久坂玄瑞の銅像があります。山縣有朋の方はかなり大きいです。吉田松陰が先生をした松下村塾の生徒の中から明治を切り拓いた人材を多く輩出したことから、吉田松陰や松下村塾の思想価値は非常に高いものとなっていますが、その松下村塾の中でも双璧と呼ばれ、吉田松陰に一目置かれていたのが、高杉晋作と久坂玄瑞と言われています。
 

 
菊屋横町 (萩市呉服町1丁目付近)
全長500mの道。延々と続く土塀(なまこ壁)が美しいことから、「日本の道100選」に選定されています。この通り沿いには萩焼のお店も沢山あります。
 
 
高杉晋作誕生地 (萩市南古萩町23)
高杉晋作が生まれ育った家!菊屋横丁沿いにあります。9:00~17:00に開いていて、家の中には入れないのですが、庭の南側だけ入ることができます。ここの近くには晋作広場というスペースがあって、高杉晋作立志像も立ってます。
 

 
木戸孝允旧宅 (萩市呉服町2-37)
維新の三傑の一人、木戸孝允(桂小五郎)の旧家です(維新の三傑…明治維新に尽力した、志士の木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通の3人を指します)。菊屋横丁の1本手前の通りにあります。9:00~17:00で開いてます。この家の凄いところは、なんと家の中に入れるのです。補修工事など勿論されているんですけど、医者の家系である家なので、たぶん当時からちゃんとした家だったし、丁寧に住まれていたんじゃないかなと思います。中には、子供の頃に木戸孝允が落書きした柱などが展示されています。ちなみに書かれていた文字は「死ぬまで努力を続ける」という意味の四文字熟語・死而後巳(ししてのちやむ)でした。諸葛亮孔明も使っていた言葉とのこと。写真は縁側に座って眺める中庭です。
 

 
 
・萩明倫学舎 (萩市江向602)
最近できた萩の新観光名所。日本三大学府の一つと言われた藩校・明倫館の敷地に、当時の明倫館が再現建設され、その中に資料室やお土産屋さん、幕末ミュージアムなどが入っています。(※藩校…江戸時代に、全国の各藩が、藩士の子弟を教育するために設立した学校で、明倫館に関しては農民とかは入学できなかった)。
 
 
 
  
  
・伊藤博文旧宅 (萩市椿東1515)
松下村塾の裏手を少し歩くとある伊藤博文旧宅。伊藤博文は農民出身なので、明倫館には通えず、松下村塾こそ彼の学び舎でした。こう考えてみると、初代内閣総理大臣が農民出身で、士族じゃないんですよ。エリートじゃない人が総理大臣になったって、女性首相が出たって、別に最初っから何も問題ないのに、現代は勝手にあーだこーだですね。
ちなみに、幼少期の吉田松陰をスパルタ教育した叔父・玉木文之進の旧宅や、松下村塾四天王の一人である吉田捻丸誕生地も近くにあります。
 
 
・松下村塾 (萩市椿東1537)
吉田松陰が指導した短い時期の塾生の中から、幕末・明治期の日本を主導した人材を多く輩出したことで知られている私塾です。その顔ぶれは高杉晋作、久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一、伊藤博文、山縣有朋、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、前原一誠、飯田俊徳、天野清三郎などなど、幕府軍を打ち破った人から、近代日本国家の基礎を築いた人まで。ちなみに維新三傑の桂小五郎(後の木戸孝允)は松下村塾の門下生ではないものの、吉田松陰が明倫館で塾頭をしていた頃に指導を受けていたようです。ここから明治維新が始まったと思うと、教育は「質」だなと痛感します。
 

 
 
・松陰神社 (萩市椿東1537)
 吉田松陰および松下村塾の生徒を祭神とする神社です。学問の神として崇敬を受けています。実は日本に2カ所あって、それが山口と東京にあるのですが、実は僕が東京で生まれ育った実家の徒歩圏内に東京の松陰神社はあるのです。松陰神社って駅もあるので、小さい頃から認識はしていたのですが、それが吉田松陰にここまで所縁のある場所とは知らず、『世に棲む日日』という吉田松陰と高杉晋作の生涯を描いた歴史小説を読んで、衝撃を覚えたのが数年前でした。今回もしっかりと参拝させてもらいました。
 
 
・吉田松陰誕生地と墓所 (萩市大字椿東1433-1辺り)
もう跡地になっていますが、吉田松陰が生まれ育った場所があります。ここは萩市内を一望できる山の方で、吉田松陰は毎日萩市内を一望しながら育っていたと思うと、それは心も豊かになるよなと思いました。
そして、この旅の最後に選んだのは、吉田松陰の墓。玉木家や久坂家の墓もありました。お墓参りをさせてもらって、この旅を終えました。
 

 
 
 
 
7、まとめ
 
僕は別に右翼でも左翼でもなく、江戸を倒幕したことが良かったのか、悪かったのか、それは今となっては分からなくて、彼らが明治を切り拓かなくても、いつか新時代は幕をあけていたかもしれないし、明治を切り拓いて陸軍海軍をしっかりと構築しなかったら、海外の軍に弾圧された後、日本は今ごろ植民地色の強い国になっていたかもしれないし、まあ、たらればだらけになってしまうからこれは不毛な議論なんだけども。
 
ただ、明治維新志士において一つ言えるのは、彼らは「なんとなく生きる」「権力に怯えて服従する」といった類いからは正反対の道を生き、ちゃんと「当たり前になっている状況に疑問を持つ」をやめなかった集団だったということ。
 
彼らは日本に維新を起こした以前に、自分自身に維新を起こし続けた人たちだったんだなと思う。そういう意味では、明治維新には、思想ではなく、姿勢として、僕たちが見習わなくちゃいけないものが数多くあります。
 
吉田松陰さんが掲げた大切な精神の一つに、
「至誠にして動かざる者は、未だ之れ有あらざるなり」
という思想があります。
 
これは孟子の言葉なのですが、「こちらがこの上もない誠の心を尽くしても、感動しなかったという人にはいまだあったためしがない。誠を尽くせば、人は必ず心動かされるということ」という意味になっています。
 
僕この言葉を最近まで知らずに、20代の間ずーっと「何よりもまず誠実であれ」ってわーわー言っていたんですよね。不思議なもんで。(吉田松陰と高杉晋作は20代後半で亡くなったのですが、僕が20歳でも25歳でもなく、28歳と29歳のタイミングでこの場所を訪れたことも不思議)
 
でも、自分の信じて来たものを、「私もそれを大事に生きたんだよ」って吉田松陰に言われた気がして、以前より自分の思想に自信がついたような気がします。
 
 
あと1ヶ月半後には誕生日を迎えて、京都で一人静かに30歳を迎えるのですが、30代が始まる前にこの場所に来ることができてよかったです。
 
今回二度目ではありますが、明治維新関連地を回って、自分が「こうなればよいのに」と信じる世界に、少しでも近付けるように、まだがんばらなきゃいけないことはたくさんあるなあと感じました。
 
現在執筆中の小説も、今から佳境気味。
ものすごいものにしたい。がんばる。
 
 
 
長文失礼しました、
以上です!
 
引き続き筆不精でなブログ更新ではありますが、
暖かく見守ってもらえたら嬉しいです。
 
最後まで読んでくださり、
ありがとうございました!!
 
 
 
小川光一
 
 
 
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