こんにちは!
小川光一です!
今日は僕の名前の話をしたいと思います。
小川光一
フルネームで13画。
小2の4月、6歳11ヶ月の時点で学習終了。
ちょっとシンプル過ぎて嫌だなと思いつつ、誰よりも先に名前を書いてテストを始められることに優越感を感じながら青春時代を過ごしまして。
そんな僕の光一という名前について書きたいのが今日なのですが、
実は僕の家系、
隆志、広志、清志、英志、篤志……etc
といったように
なんか「志」って字が入ってる人ばかりで。
「志」とは…
心に決めた目標・目的。信念。志操。
相手を思う気持ち。人に対する厚意。
いわずもがな素敵な意味ですよね。なのに、なんで僕の名前には「志」が入ってないんだろうって仲間はずれな気分で過ごしていた青春時代でもありまして。
それに疑問を持ったことが
入り口となり、
大学入るくらいで知った自分の名前の由来。
そもそも「志」ルールが適用されてない僕には
実は名付け親がいるらしく。
なんと名付け親は
平和を目指して世界中を回りまくってる
世界的に超有名な人。
僕はその人のことを個人的にあまり好きではないのですが、
まさか自分の名付け親だとは露知らず。
奇しくも同じように平和を願って動きまわってる自分に
底知れない運命の引力を感じています。
「光一」
闇夜を照らす一筋の光
誰かの希望を灯す一筋の光
こういう意味を込めて、
名付けられたそうで。
岩手県陸前高田市内/震災直後に咲いた蒲公英の花 |
大学時代に友達70~80人くらいに
「色に例えると?」アンケートをしたら
オレンジが1位、イエローが2位でした。
オーラが見えると言う友達は共通して、
濃い黄色のオーラが見えると言います。
小学校低学年の時、
「小川の光に世界一で小川光一だよ!!」
と謎なテンションでひたすら連呼していました。
そして、
気付いた時には「光」を
“人に希望をもたらすものの例え”として
よく口にするようになっていました。
偶然ですか?
必然ですか?
それとも関連性はないですか?
いつからか
僕は自分の名前に
どこか導かれているような気がしていて。
とりあえず
「すっからかんのころんのすってんころりんちょんのポン」
って名前で生まれてこなくて良かったです。
(RADWIMPS『閉じた光』の歌詞のオマージュ)
そして最近お寺の住職さんから
僕の名前の仏教的解釈を聞きまして。
「光一」
①まず漢文では逆から読むとか
②「一(いつ)」には真実、縁という意味があるとか
③「光」には照らす、与えるという意味があるとか
つまり
真実を照らす
(人に)縁を与える
「光一」は仏教的には上記のような意味とかになるらしい。
僕が主宰している、
これから生涯続けようと思ってる
映像制作NGO LUZ FACTORY。
LUZはスペイン語で「光」。
そして「Light Up Zero」の略でもあって。
「世界中にある伝わるべき真実が、
伝わることなく辺り構わず落ちていて。
そんなゼロに光を照らしていく」って意味なんですよ。
とどのつまり
やろうとしてること
僕の名前と同じなんかい!
ってびっくりしました。笑
そして僕は師匠であるヤハギクニヒコから
Relation Editorという肩書きも命名されておりまして
Relation Editorとは…
多分世界に僕だけのオリジナル肩書き。関係を編集する人。人と人、想いと想いを繋ぐ人。光の三原色の組み合わせで何千もの色合いを作り出せるように、その場その場にいる人の組み合わせでしか作れない絶妙な色合いを調整することに注力する人。
上に書いた通りの意味合いで、
去年まで経営していた国際協力カフェもそうだし、
人生を通じて常に意識してることなんですよ。
とどのつまり
やろうとしてること
僕の名前と同じなんかい!
ってびっくりしました、その2。笑
不思議ですよね。
そんな感じで気づいた時には
僕は名前に所以する志向性を持っていたのです。
結局僕が日頃意識して止むことのないものは
「白」と「黒」
「生」と「死」
「平和」と「戦争」
「希望」と「絶望」
要するに
「光」と「影」
この対は僕の中で切っても切れない人生のテーマで、
スペインの哲学者ミゲルデウナムノの真髄でもあるのですが、
パスエンラゲッラは何処までも
自身の中に落とし込みたい象徴であって。
それに伴ってなのか
それを伴ってなのか
どっちかは分からないけど、
この自分の名前を
どこまでも昇華させたいとそう強く思うのです。
誰かの闇夜に
そっと射し込む光
そんな存在を
何処までも目指していけたらいいな。
以上、
名前の話でした。